今だから語れる
思い出の植木センター
親サイトも情報満載!
今は昔。野田市三ヶ尾の地に、JA植木センターがありました。
2008年11月いっぱいで閉店するまで、実に30年に渡り、地域で活躍する場をいただいておりました。
植木センターとは、約30件の植木生産農家で作った庭木、鉢もの、野菜等の共販所です。
それぞれがブースを借りて、好きなものを好きな価格で売り、売上の1割を運営費に充てるスタイル。
ただし、それだけでは賃貸料は賄いきれませんので、地代としてスペース毎に年間5万〜20万円を別途徴収します。
一番の流行り木だけではなく、通常では売り物にしない下草や、畑の花など、かゆい所に手が届くような品ぞろえに多くのリピーターが訪れてくださいました。
「野菜の苗は、他より値がはっても、これだけ立派で質の良いものは手に入らないよ。」
そう言って、苗ものだけを買っていくお客様もいらっしゃいました。
中にはお弁当持参でお見えになり、暇な一日植木を見て回って楽しむ方もいらしたそうです。
最盛期には、1日の売り上げ300万円を超えるほどだったといいます。
庭木ブームのころは、お客様が列をなし、木を選んでいただく間もなく次々に売れてしまったと聞きます。搬入してくると、荷物を下ろす前にお客様が持って行ってしまう状態だったそうです。
自分が修行をはじめたときには、そういうブームは過ぎた後でしたので、これからどうやって売っていくかの模索の時期でした。
植木センターはどうやってできたのでしょうか?
もともとは、JAちば県北農協の作業部会の一つ、鉢もの研究会が前身で、その仲間たちが旧野田市内の生産者を集め、販売所を作ったのです。
皆農協の組合員ですから、センター内でも組合員という呼び方で進めていきます。
経営スタイルは、前述の通り、売上からの差し引きで利益を上げ、整備等に当てます。
通常の販売は、組合員が交代で無償で販売当番を行うことで、人件費をかけないようにしました。
最初は、全て組合員で販売を行いましたが、やはり事務、経理は専門で管理してもらえないと申し送りなど混乱を来たすことから、事務員さんをパートで雇うようになりました。
そうやって経費を極限まで抑えることで、売上の1割負担で通常のランニングコストは賄うことができます。ですから価格にもそれが反映でき、中には市場の10分の1ほどの値段で売ることができるものまであったのです。
我が家も、元は盆栽のさつきを生産・販売する仕事をしておりました。盆栽ブームが下火になりはじめた時期、これからのどうやって生活をしていこうか悩んでいたときに、新たな開拓の場として、直売所作りを考えたようです。
畑には、さつき以外にも市場出しをしていた椿、もみじ、シラカバなどがあったためそれを商品に。生産していないけど人気の商品は仕入れてきて販売しました。
植木センターにいると、お客様から多くの相談をお受けすることになり、それにお答えするように剪定、植え込みをすることも増えていったそうです。
ここは販売所ですので、販売以外の作業は個人の裁量で済まされてしまうことが多く、自分が始めたころには、相談を受けた人間が直接仕事をする形態が暗黙の了解になっていたので、まともにお客様の話を聞かない組合員の代わりにお話させていただいているうちに、我が家のお客様になってしまうこともしばしば。
最初は剪定なんて素人同然だったようですが、勉強を重ね、仲間から手を借り、いつの間にかお客様の信頼を得ることができるようになりました。
そのお客様がお客様を紹介くださり、輪が広がり、いつの間にか本業が生産からお客様仕事に変わっていき、今の形態で仕事をさせていただいております。
我が家ですらそうだったのですから、30軒もの農家が入るとすごいことになります。
盆栽専門、庭木専門、生産ではなく市場からいいものを選んできて販売する鉢花屋さん、きっと扱えないものはないレベルの集団だったはずです。
それぞれが得意分野を生かして販売を行っていましたが、我が家のようにアフターケアまでする組合員は少なかったようで、その時点から販売より、こちらのサービスで我が家の売り上げを上げていくようになった次第です。
ひとつ誤解がないように記すと、組合員は専業農家、専門職とは限りません。
親が畑で植木を作っていたからそれを売るため。サラリーマンをしながら趣味の延長で。本業は野菜農家ですが、家にある植木を処分したいから。
など、多種多様な理由で人々が集まりました。共通点は、皆植木が好きであるということ。
だからこそ、原価を下回るような価格をつけても平気だったりもします。植木センターだけで食べていくわけではない気楽さから、真剣に向き合わない方もいたことも事実です。
自分も植木センターに出入りするようになって10年が過ぎました。
我が家が、このセンターのおかげでお客様と相当知り合い、本業は生産だったのに、いつの間にか植え込み、手入れなど、お客様のお宅にお邪魔する仕事に移行できたように、販売だけでなはい付加価値をこのセンターでの販売に見出そうとしました。
植木センターも末期のころでは、我が家の売り上げは年間200万円にも届いておりません。
ここには植木センターを通さない売りは入れておりませんから、実際にはぎりぎり200万円超えるというところでしょう。
我が家は仕入れ比率が大きいので、販売当番の人件費も計算に入れたら、完全に赤字です。
自分がもし販売だけで食べてこうしたら、とっくに破産している数字です。ですが、自分は木を1本でも多く売る努力より、一人でも多くのお客様と出会うことを心がけました。
これは、ホームページとも連携しているわけですが、これほど地元に根付いた販売所なので、もっと多く方に知ってもらい、販売だけではく情報や、植え合わせや樹木の特性など知識をお伝えし、扱う資材も増やし、さらにお客様に喜んでもらえ、さらに多くの方が足を運んでもらえる場所にしたいと考えました。
いつかの元首相の言葉を借用すれば、「植木センターをぶっこわす!」つもりで動き出したところだったのです。
結局この目論見は、植木センター完全閉店という形でしぼむことになりましたが。
植木センターの設立が30年前ということは、会員の方々もまだ30代、40代が中心で、きっと理想を胸に始めたのでしょう。しかもあらゆる意味で体力があったとも言えます。
その後、組合員も数軒入れ替わったりしておりますが、中心になっている人々は変わりません。
組織としては、末期の頃には、皆定年を迎えた方ばかりの状態。
中心は60歳を越えていました。50歳で若手と言われていましたから。自分なんぞ小僧っこですね。
変わらないというより、代替わりしようにも後継者がいない、という農家がほとんどです。
自分もたまたまこの仕事に転職いたしましたが、最初からいつかはこの仕事を、なんて考えたことありませんでした。
30代以下で、専門的に植木関係の仕事をしている人は、センターには自分も含め3人しかいないでしょう。それがこの業界の現状です。
30年という月日の流れは、人を疲れさせるには十分なのでしょう。組合員の一部の方から弱気な発言や、やる気のない態度が目立つようになりました。
はじめからお客様に指摘されていたサービスの悪さも、素人集団なので仕方がなかったではすまされない向上心のなさが影響しています。
それまでは成功していたからとはいえ、それがこれから先まで成功するか、本当は成功しない、ということは頭の中ではわかっているはずです。ですが、変えられない自分たちがいる、今さら変えられないと思う自分たちがいたのでしょう。
売上が大きく落ち込んできても、大して変革をせず、コスト削減、価格の値下げしか実行しなかったことがその重い腰をうかがわせます。
これも、自分が中心になる時代では変えてみせる、それまではしばし我慢。
そう心の中でつぶやく日々でした。
終焉は突然訪れました。
最初始めた場所から、今の地に移って20数年経ちますが、この土地も組合員の所有地で、その方からお借りしていました。身内なので、センターの懐事情もよくご存じで、相当サービス価格でお借りさせていただけました。
その地主さんが70歳を目前に急に亡くなられ、その相続問題などで、この地を借りることができなくなったため、結果的に閉店を余儀なくされたのです。
まさか、今の時代それほど早く亡くなられるなんて誰も予想だにしませんでしたので、まさに誰しもが寝耳に水でした。
しかも、地主さんの息子さんは一緒に住んでいるわけではなく、他市に住まいもあるため、地元の事情は知らず、となればやり方も自分流で進めるしかなかったのでしょう。
この地で存続できるかは、閉店を迎えた2008年、同年9月に、「貸せない」という結論をいただきました。こちらとしても、11月の下半期閉店まで3か月の余裕しかありません。
当初、別の場所で再開する話もありましたが、それに加わりたいと考える組員は8名ほどしかおらず、皆売上の悪化と高齢を理由に廃業する方向でいたようです。
つまり、皆副次的な商売と捉えていたので、真剣に移転してまでと考えられなくなっていたわけです。
さらに付け加えれば、皆樹木を売ることだけを考えているので、売れないからやりたくない、気持ちだったわけです。売るにはどうするか、それをまじめに考えられれば、いくらでも存続できたはずなんですが。
事態がこれほど急に動き出す羽目になったのは、植木センターの当時の役員さんたちの決断、行動の遅さもありました。
意見の統一もままならずことを運んでいたので、最終決断は11月の下旬。閉店まで知らずにいた組合員もいたほどです。
申し訳ないことに、この完全閉店という結果をほんとどのお客さまにお伝えしておりません。
自分には理解できませんが、別になくなるのだから改めて伝える必要はないだろうと判断したようです。やる、やらないを二転三転して決定した上に、このざまですからね。
閉店のことをお伝えしているのは、自分のサイトしかありませんし、お問い合わせをいただいているのも、種を撒くつもりで名刺を配りまくっていた自分のところしかないことが非常に残念です。また、非常に申し訳ないことだと思っております。
本当に言葉たらずで申し訳ありません。
お客様に対してその程度の意識しか持っていなかった組合員たちですから、つぶれるべくしてつぶれたのだと捉えるしかないのかもしれません。
実際、組合員の思惑以上にショックを受けられたのはお客様方だったと思います。
皆さん、こんなに来店を楽しみにされていたんだ、ということしみじみ感じたのは、不覚にも完全閉店後に多くの方々から惜しむ声をいただいたことからです。
出資が必要なら出してもよいから続けて欲しいという声もいただきました。それほど愛されていたにも関わらず閉店せざるを得ないのは、自分にはまさに断腸の思いです。
一縷の望みを託して市の農政課にも相談してみましたが、野田市の特定農産物ではない以上表だって補助することはできないけどそれでよいなら、と満足できる返事をいただくことはできませんでした。
悔しいですが、今後これほどの規模の販売所の建設は今の野田市では無理でしょう。
10年20年後を見据えると、今以上に廃業されている方も多いわけで、さらに厳しい環境になるはずです。
そうは言っても、失ったものの大きさはこれから徐々にわかってくると思いますよ。市だってそれから動いても手遅れなんですが、どうして皆さん気付かないのでしょうか?
植木センターはまさにダイヤの原石でした。原石ができるには年数が必要です。センターも、その30年の歴史からようやく人々に浸透しはじめ、削りだせるレベルに達したと思っておりました。
ここから時代に合わせ、このカッティングを行うつもりでいたのですが、ダイヤのつもりが炭を作ってしまった、という笑えない落ちになりました。
いつまでも叶わぬ夢の愚痴を言っていても仕方ありません。
今は、植木センターをよき経験として、今後これに負けない事業を展開していかなければなりません。
今のところ、センター閉店に伴う心の空洞を埋めるには時間がかかりそうですが、いつか、新しい組織で、新しい考えのもと植木センターを復活させるつもりでおります。
この先十数年かかるでしょうが、不断の努力で皆さんに喜んでもらえる販売所設立いたします!それまでしばし思い出にさせていただきましょう。
〜写真で綴る植木センターの思い出〜
開店当時から使われてきた看板と事務所のプレハブ。補修をしながら30年使われてきました。
レトロな黒電話。
結構現代人にはなかなか扱いにくいです。
この圧倒的な品ぞろえ。この近辺で並ぶもののない品数だったと自負します。
野菜や野菜苗も人気の商品。
相嶋造園のブース。飛び石を配して庭園風に作ることで、植え合わせの事例を示したり、参考にしてもらったり、来る方に喜んでもらえる販売所作りを心がけました。
自家製の梅干しやイモがらも、それを目当てに来るお客様がいたほどのものでした。
史上最大の作戦
いつも、植木センターを御贔屓くださる不動産屋さんに、急ぎの分譲現場の仕事を頼まれました。
しかも、造成をしながらの植栽です。さらに裏手ではお隣の邪魔をしている樹木の枝下ろしも同時進行。とても数人では終わりません。
とはいえ、こちらもいつもお世話になっている社長さんの頼みです。自分の仕事がつまりながらも、急ぎの仕事のためにセンター組合員4軒が立ち上がりました。計10人が日を差し替えながら、枝下ろしとセンターからの樹木搬入、植え込みをこなしていきます。
この日は、我が家ともう1軒の造園屋さんとでピストン輸送です。
トラック2台で運びこむ間、不動産屋さんの植木好きの社長さんと、別に助っ人で雇ってくれた植木屋さんを助手に相談しながら植栽作業を行いました。
自分のいた10年の間に、困難な作業をいくつも行いましたが、このまさに閉店最後の大仕事は、記憶に新しいこともあって、一番の思い出です。最後まで関わる余裕がなかったのですが、もう売れちゃったのかな?
立つ鳥、後を残さず
2008年いっぱいで、この土地を明け渡さなくてはなりません。慣れ親しんだ土地とはいえ借り物。返してくれと言われれば出て行くしかありません。11月30日で閉店し、12月からまず自分のブースからの運び出しです。
’都落ち’自分の気持ちは、まさにそんな言葉がぴったりのわびしい片付けでした。
ブルで整地し、完全に跡形もなくなりました。これから何ができるのでしょうか?これだけ何もなくなると、返って足跡を残しておけばよかったと思ってしまいます。
残さりしもの
我が家の南角に位置するところに、電柱を隠す目的で大きくしたカイズカイブキがあります。
普通より凝った形に仕上げてあります。
実はこの木、一番最初にあった植木センターの敷地の周りに植えてあった生垣の木でした。
その場所は、総合病院の建設のため、立ち退いたのですが、そのとき周りの生垣にしていたカイズカイブキも抜くことになり、なぜか記念に組合員1軒ごとに記念に分けて持ち帰ったそうです。
他の組合員のお宅ではすでにないでしょうけど、我が家は庭に植えたので、20数年でこれだけ立派な木に成長しました。
今ではこの木が過去の栄光を語る唯一の遺産となったようです。