日光TOURS 〜Part3〜
日光東照宮
  (栃木県日光市)

東照宮とは、徳川家康を祀った神社のことを言い、全国で500か所にも及ぶそうです。
家康死後、朝廷から贈られた東照大権現という神号から東照宮と呼ばれています。
日光にある東照宮は、全国の東照宮の総本社です。
ここには家康の遺体も埋葬されています。
当初、2代将軍家忠が造成した時は簡素なお堂だったものを、3代将軍家光が今の形に生まれ変わらせました。東照宮造営帳の記録によると、総工費は56万8千両で換算すると2千億円にのぼるそうです。工期はわずか1年5ヶ月ですが、454万人もの人が動員されました。


 歴史から見ても、陰陽道から見ても、東照宮とは興味の尽きない遺構です。
特に、日光東照宮の基本設計を裏で指揮した天海僧正は、家康以上に大きな興味を持たされます。
 修学旅行でしか来ていない方も多い場所でしょうから、この機に見所をできるだけ細かく掲載したいと思っております。きっと行きたくなりますよ!

陽明門のかけられている東照大権現という額は、後水尾天皇の筆によるものです。
これにより明治維新の際の朝廷軍の北上の際に、日光は取り壊されなかったという話を聞いたことがあります。
日光の位置が、江戸からほぼ真南にあり、北面の武士的役割を果たしてたいたことも事実でしょうが、それでも何故日光が選ばれたのか?
風水的地形に優れていた、東北との国境の守護、霊地であった、家康の信奉する源頼朝の縁ある地である、また天海の陰謀説など、表面に現れてこない歴史の真実を探ることも楽しみの一つです。
そう言えば以前埋蔵金探しもテレビで大々的に行われましたね。
単に世界遺産だからという以外にも、ひきつけるものが多い地ということでしょう。

相嶋造園

 表参道を登りきると、入口にあたる一の鳥居が見てきます。
 高さ9m、江戸時代の石の鳥居の中で最大級。

 五重塔の軒下には、虎(家康)、卯(秀忠)、辰(家光)の干支が飾られています。

 鳥居をくぐって左手にある五重塔。この時点で豪華さに圧倒されます。
高さ36m、内部は吹き抜けになっており、そこに直径60cmの心柱を吊り下げることで、免震設計になっています。
屋根も、雪で壊れないように、同じ大きさになっています。4層目までは和様、5層目だけはタル木が放射状の唐様で、四方に十二支の彫刻で方角を示しています。
 う〜ん、ただきれいなだけではないんですね、奥が深いです。しかし、唯一火災にだけは対処出来なかったようで、こちらはオリジナルの再建版です。

 いよいよここからは有料エリア。聖域に入っていきます。
表門は、4mある金剛力士や獅子によって守られています。
「今朝は-7度、今年一番の冷え込みだったよ。」守衛さんが話されていました。どおりで寒いわけです!

 正倉院と同じ校倉造りで作られた神庫。上・中・下の三つを合わせて三神庫というそうです。
 下記写真がそれぞれの写真です。中には千人行列の衣装などが収められているそうです。
 裏手に西浄という神様のトイレもあるそうですよ!

 上神庫に見られる狩野探幽作、想像の像。本物の像を知らずに、想像で像を描きました。何故像かと言えば、ここが蔵(くら)→ゾウからだという説があります。
 東照宮には、ちゃんとした像の彫刻も残っているというから面白いですね。

 聖域内禁煙の文字が。
突如出現する華美な建築群にタバコを吸える雰囲気ではないです。

 5代将軍家綱お手植えのコウヤマキ。栃木の名木に選ばれています。
 杉に見えますが違いますからね。

 1年ぶりに雪で遊べる面白さからか、寒さを忘れて走りまわる泣き虫坊主。うらやしいくらい楽しそうです。

 ご存知、見ざる、言わざる聞かざるの三猿の彫刻のある神厩舎です。唯一漆塗りではない建物です。

 神厩舎は、神馬をつなぐ場所です。猿は馬の守るという教えから、猿の彫刻が欄間に飾れているのです。
 実はこの彫刻、8枚のセットであるって知ってました?猿の半生を描いた物語なのです。人の一生を諭したものです。

1・母が子猿を見守り、2・子供に教え(見ざる、言わざる聞かざる)さとし、3・親離れが近づき、4・将来について考え、5・時に落ち込み、6・恋し、7・結婚する、8・子猿もついに親となる

 水盤舎。いわゆる御手洗ですね。豪華さは半端なじゃないですけど。
 実はここが御手洗の元になったそうです。
 龍や波など水に関する彫刻で飾られています。
 12本の石柱がいいですね。水はサイフォン原理で組み上げているそうです。

 ちなみに、時間によってはちゃんと東照宮に使える神馬が出勤します!

 日本で最初に作られた青銅製の唐銅鳥居。

 江戸からほぼ真北に位置するこの地で、この鳥居の中央から陽明門の真上に北極星が輝くそうです。

 何度見ても息をのむ陽明門が見えてきました。
 日光と言う地名になり、さらに東照宮や陽明門、’日’という漢字がどれだけ溶け込んでいることか。

高さ11,1m、幅7m、奥行き4,4mの門には、約508もの彫刻群が飾られております。

 水盤舎の左奥の屋根が一部魔除けのため欠けています。

 陽明門の柱の文様は、上下逆さになっているものがあります。
 完成された時点から崩壊がはじまる、という思想から、わざと逆向きにして未完成にし、崩壊させないようにしています。水盤舎の屋根も同じ理由です。拝殿にもあるそうです。

 麒麟、龍と息、目抜きの龍、龍馬、唐獅子、伝説の神獣たちが門を守ります。
 古来より龍は魔をにらみ倒します。また龍脈にもつながります。とても縁起を担いだ彫刻です。
 陽明門は、別名日暮門(ひぐらしもん)と言います。日がな一日眺めていても飽きない門という意味です。

 他にも、中国の故事や仙人の彫刻や、平和な世を願って子供たちが遊び戯れる様子を描いた唐子遊びの彫刻など、目を移すごとに何か発見があります。
端から端まで変化があるのでぜひじっくり見学したいものです。特に唐子遊びはユーモアもあり見ごたえあります。

 人物の表情も、神獣たちの表情も全てひとつづつ違うんですよ!

 陽明門だけに目が奪われがちですが、その両翼に広がる回廊の彫刻もすばらしいです。植物や鳥など数千の数が描かれています。ここが、花咲き実のなる豊穣の世界であることを暗示しています。
 その南側にある本地堂(薬師堂)に鳴龍の仕掛けがあります。

 銅鳥居から陽明門を見て、右側が鐘楼、左側が鼓楼。それぞれ釣鐘と太鼓が収められています。

 他にも釣り灯籠や朝鮮鐘など見ものがありますが、左写真の廻灯篭がいわく品です。
 これはオランダの東インド会社から奉納されたものですが、一か所の葵の紋が逆さになっているのです!さすが海外製、国内なら大変なことになっていたでしょうね。別名逆さ葵の廻灯篭。

 階段の柱に下を向いた獅子を発見。他では見たことありませんでした。飛び越えの獅子と呼ばれています。

 神與舎(しんよしゃ)。ここには左から源頼朝、徳川家康、豊臣秀吉の神輿があります。春秋の祭りで使われるそうです。

 神輿舎の天井画は、日本一の美人天女といわれる’天女舞楽の図’があります。ちょっと見ずらいのが難点ですね。

 陽明門を抜けて正面に本殿があります。
 その正面に、本来なら見所の一つである唐門があります。残念ながら現在平成の大改修中。
 以前テレビでこれに関わっている漆職人の話が出ていました。気の遠くなるような作業の連続です。伝統が守られていけばいいですね。

 唐門は、普段使われることはありません。今でも大祭か国賓クラスの参拝者がない限り開けられないそうです。
その門の両側には、寄木細工の昇竜・降龍があり、唐破風の屋根の下には、舜帝朝見の儀の精密な彫刻があります。かろうじて上の写真にも見てとれます。ここは陽明門以上に緻密な作りになっています。

 奥社に向かう入口にあるのが、眠り猫の彫刻です。江戸時代の名匠、左甚五郎の作。体長21cm、意外と小さいので見過ごしてしまいそうです。この裏手にはスズメも掘られており、平和な共存を示唆しています。
 ここを抜けたところには、華麗な坂下門があります。江戸時代はこの先は将軍しか入れませんでした。

 奥社までの道のりはかなりの石段を登ります。踏み石も一枚岩でできています!派手ではないですが、これもすごい。
 東照宮内パワースポットの一つです。

 奥社の拝殿。黒漆仕上げの重みのある建物です。内部の派手さは対照的です。

 左が鋳抜門。それぞれの部品が一つの鋳型で作られているからだそうです。その袖にいるのはシンという神獣。
 右が家康の神柩が収められている宝塔。高さ5m。一度も開けられていないそうです。前には鶴亀がいます。

 叶杉(かのうすぎ)。樹齢600年の杉の木は、願い事が叶うといわれています。

 銅鳥居を抜けて、元来た道を戻ります。しかしこの石段は急ですよ。一番の試練です。

 こちらが本殿です。代表的寺社建築のひとつ、権現作りで建てられています。
 格子状の格天井には、狩野探幽らによる100頭の竜、戸板には霊獣、麒麟と白沢、長押には三十六歌仙の歌が飾られております。内部は撮影禁止なので、お伝えできなくて残念です。
 かつて拝殿までは、1万石以上の大大名しか上がれなかったとのこと。

 これから向かうは現在無料公開中の御仮殿です。本殿の修復などの際に、一時的に重要なものを安置する場とでもいいましょうか。

 東照宮を出て左手方向に階段が続いています。その先にあります。

 青銅製の鳥居をくぐります。その先に朱塗りの仮殿があります。これなら仮殿と言っても、十分本殿として機能しますよ。もちろんここも重文です。

 回りは朱塗りの結界だし、立派な御手洗に、鐘楼堂まであります。これまで19回使われたそうですが、1863年以降は使われていないそうです。