小石川後楽園とその外周(東京都文京区)
〜前 編〜
水戸徳川家の祖、頼房が中屋敷として作ったもので、二台藩主光圀(水戸黄門)の代に完成させた池泉回遊式庭園。
後楽園とは、中国の范仲淹が表した’岳陽楼記’の一説「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」(先憂後楽)から名づけられた。
国内でも数少ない特別史跡と特別名勝の両方の指定を受けている庭園。
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大江戸線、春日駅で下車、小石川後楽園(今後は略して後楽園とします)方面に向かいます。
実際には大江戸線なら飯田橋駅の方が近いのですが、後楽園までの道行きが好きなので、いつも春日から歩きます。
左は、東京ドームの入り口付近の陸橋の上からの眺め。
立派な塀で囲まれているエリアが後楽園です。
他とは異にする木々の太さに、時代を感じます。
街路樹が子供のような大きさです。
今日も巨人戦があり、すでにお客さんの姿が見受けられました。
ここから入り口まで、実に500m歩かねばなりません。対角線上の位置入り口があるのです。
ですので、本当は飯田橋駅のほうが行きやすいのです。基本的にはそちらをお使いください。
まっすぐに続く塀沿いを歩きます。
お盆すぎの今日も、関東は30度を超える暑さ。しかし、後楽園内の大木たちの緑の下は深く、涼しそうです。
塀伝いに歩いていると、いつの間にか表通りを離れ、細い道に入っていきます。
公園脇の遊歩道になっているのでしょう、植栽もされており、ヤブランが満開に咲いていました。
反対側では、暑い日差しの中、おじさんが機械に乗ってグランド整備をしていました。
入り口まで最後の直線路に出ました。
また塀の顔つきが変化しました。
今までで一番石積みが立派です。
街頭もレトロな雰囲気。
なるほど、道理で立派な石積みです。
後楽園の入り口に看板が立っていました。
石についている刻印の意味も、書いてありました。実際に積んである石に入っています。
やっと入り口に到着です。
前回来たときには見なかったと思われる色付き看板がかかっていました。
この案内板の左下の角が現在の入り口になっています。
右下の出っ張ったところに正門があります。(閉鎖中)
入り口前は、ゆとりある広さです。
この奥に受付があり、その手前のスペースはフリー。
サラリーマンが涼んでいたり、犬の散歩をしている人がいたりします。
受付前です。ゲート右が受付、左は集会所、売店などがあります。庭園内には、休息所やゴミ箱はありますが、食べ物は売っていません。ここで飲み物と調達しておくことをお奨めします。
手水鉢に流れる水を利用した獅子脅し。
涼しげな音がすると思ったら、集会所の前にこんな風情あるものを見つけたのです。この奥の竹垣も粋です。しかし、ここからではいい写真が撮れませんでした。
手水鉢の形も風流です。
ここからが、世界を隔てる境界です。
都心を離れ、深山幽谷に迷い込んでいきましょう。
ここでは時間も止まって感じます。
入って先ず目の前に飛び込んでくるのは枝垂れ桜。また、桜の木も見え、ここ一帯は春の満開の花の風景を映し出すエリア出ることを物語っています。
このように後楽園では、大きな区切りはありませんが、エリアごとにテーマがあり、それに沿った植栽、景観を楽しむことができるようになっています。
目の前に、大きな池(大泉水)が見えてきました。
池の水際まで降りられる園路を発見。
近づいてみます。
この池は、琵琶湖を模したものだそうです。
昔はここで舟遊びを楽しんだりしたようです。
奥に見るのは、対岸ではありません。池の真ん中に浮かぶ島、’蓬莱島’です。
これについては後ほどご説明しますが、庭作りには色々な思想、願いが込められています。
池泉回遊式庭園; 江戸時代に発達した庭の様式。
庭に池を作り、その周りを回遊できるようして庭を楽しむ庭園スタイル。
参勤交代で、江戸と領国を行き来する大名達が、目に映った景観を庭に取り入れる
ことが流行し、その景観を池の周りに配置して、園路を歩きながらその景観を見て回
れるようにした。
枯れ滝を横目に、園路を右方向に、大泉水を回遊してみましょう。
園路の敷石も色々趣向が凝らされていて勉強になります。
こちらは、玉石と板状の石の組み合わせ園路。
ん?要石?かと近づいて読んでみると、’陽石’とあります。つまり男性のシンボル。
子孫繁栄、五穀豊穣、悪霊払い、生命の象徴として縄文時代より祭られてきました。
右側からせせらぎが聞こえてきました。
と、その川の手前に階段があります。
軽く登って見ましたが、上には何もなし。
何もないところは、西行法師の木像が納められていたという、’西行堂’があった後です。
左の写真は駐歩泉の碑。ちなみにその奥に少し見えるのは、トイレ。
石の平橋を渡ると、そこは紅葉林です。
そして橋から紅葉林を囲むように流れ込んでいる水路には、龍田川(たつたがわ)の名が。
きっと、紅葉で有名な関西の龍田川を模したものだと思われます。
紅葉林には休憩できるスペースがあり、頭の上全体が葉で覆われて涼しいところでした。
紅葉林から見る蓬莱島。手前に見える切り立った石は、’徳大寺石’。
ここから見る蓬莱島が一番見やすいと思います。
島の右端では、鷺が一羽微動だにせず立っています。最初は置物?かと思いました。
この切り立った鏡石は、庭師徳大寺佐兵衛にちなんで、徳大寺石と呼ばれています。
ここには、弁財天を祭った祠があるとのこと。
蓬莱島; 古代中国の道教において、東海のはるか彼方にある仙人の住む神仙蓬莱の群島がある
と言われていた。そのため、庭において池泉に浮かぶ島を、蓬莱島に見立ててきた。
そして、島の前面には険しい石組みを立ち上げ、それが蓬莱石組みとして定着した。
さらに、その手前に鶴、亀に見立てた石を置くこともある。
これは、池に留まらず、枯山水の庭には陸上に、この蓬莱島(山)を作り、三尊など、
石の配置も工夫されていった。
蓬莱島以外にも奥には竹生島などもあり、また対岸の景色も、絵になるところが多く見事です。
今はこちら側の視点ですが、これから反対側からの風景もご覧いただきます。
ここからは紅葉林を離れて、中国風の延べ段を歩きながら、林の中に入っていきましょう。緑が深くなりました。
延べ段を伝って行くと、そこは、薄暗い林の中。右側には小川が流れています。
ここは木曽路を模した林だそうです。
また、棕櫚の木が多くあることから棕櫚山とも名づけられました。
上記写真の中央左に見えるのが、木曽川の名所’寝覚の床’をリスペクトした’寝覚めの滝’だそうです。
たしかに、本物の木曽の山々には適わないでしょうが、奥深い山あいのような雰囲気があります。
木曽路が開けると、見えてきたのは内庭です。
今カメラを構えているあたりに’唐門跡’があった、と看板が立っていました。
以前はここで、水戸藩書院があった内庭と、大泉水側の後園とに分けられていたそうです。
庭園にいると忘れてしまいがちですが、ここは東京のど真ん中、東京大空襲があったり関東大震災があったり、ここの建造物も、残念なことに随分焼失してしまったのです。
松林の島と、水連の池です。島には残念ながら結界があり渡れません。
内庭の横は、東京ドームです。
こんな間近に、新旧歴史的構造物が並んでいるのは、ちょっと不思議な気分。
ドームのアナウンスも良く聞こえます。
鯉も寄ってきました。本来ならここぞばかり餌をあげる、強い味方がいるはずなのですが、一人は寂しいもの。
園路は敷石の形を変えながら、築山に登っていきます。光圀は梅が好きだったそうです。後園にも梅林はありますが、ちゃんと内庭にも梅が植えられています。
築山を一回りする中には、東屋や記念碑などがあります。
この広々した空間が内庭の正門前。
今の入り口より、こちらの方が風格があります。
あ、今の入り口も別に嫌いではないですよ。
こちらのほうが、入り口!という主張を強く感じるだけです。
さらに池の周りを一周しましょう。
こちらのグランドカバーは笹が使われています。手入れさえしっかりすれば強い植物ですし、密集してきれいです。和風庭園の定番。
大きさは大したものではありませんが、変化に富んだ松が数本あります。
もう少し早い時期なら、スイレンも咲いていたのですが、今は一面緑の葉のみです。
また鯉たちが寄ってきました。ので、今日は退散!
唐門跡から、別ルートをとり、大泉水を一周する道に出ます。
今度の園路は、全て石で敷き詰められています。
丸い石の平らな部分を見出して、形を揃えて並べるのって難しい作業なんです。ここではきれいに並べられています。
水門を発見。パンフレットには’鳴門’と書いてあります。
名勝地を収めたとすると、鳴門とはやはり、鳴門海峡のことでしょうか?渦潮はありませんが、池から引き込まれているように狭くなっているあたりはそういうイメージでしょう。
カヤ、ケヤキ、椎の木、カシ、など様々な気が植えられています。
しかし、この池に向かっての傾き方は尋常じゃぁありません。
わざと植えたのか、太っていく過程で傾いたのか、傾くことを想定して植えた、というところでしょうか?
このあたりは、特に常緑樹が多いようです。
ここまでで、約3分の1距離を歩きました。
後楽園的には、まだ導入部。これからさらに面白くなります。
中篇、後編をお楽しみに!