小石川後楽園とその外周(東京都文京区)
〜中 編〜

水戸徳川家の祖、頼房が中屋敷として作ったもので、二台藩主光圀(水戸黄門)の代に完成させた池泉回遊式庭園。
後楽園とは、中国の范仲淹が表した’岳陽楼記’の一説「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」(先憂後楽)から名づけられた。
国内でも数少ない特別史跡と特別名勝の両方の指定を受けている庭園。

 これは周り終わってから気が付いたことですが、受付でもらえるパンフレットでは、入り口を入って左回りで紹介されています。自分は皆さんに右周りで紹介しております。
そうか、だから数少ないすれ違うお客さんたちは対面から来るのですね。
んー、つまりいつも逆周りで庭園を回っていたのですか!
 パンフレット通りの順が良い方は、申し訳ありませんが巻末からご覧ください。
では、前半以上に変化の激しい見所多きの後楽園を周りましょう。



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相嶋造園

 ちょうど入り口の真反対から見た蓬莱島です。
横から見ると、大徳寺石も思ったより立体的なのがわかります。

亡くなった鷹を偲んで立てられたという、’えい鷂碑’(えいようひ)

異型の石灯籠

 船着場です。
ここから大泉水に船を出したのでしょう。

 松原。松が広場の中に点在します。
三保の松原とでもいったところでしょうか。

 やっぱ日本は暑いですか?後楽園内は外国人の方が多いくらいです。

昔の遺物なのでしょうが、何でしょう?

 江戸時代の酒亭、’九八屋’。
’酒を飲むなら昼は九分、夜は八分にすべし’という何事も控えめにという教訓から付いた名前。
 建物の裏手には赤門があります。

 花菖蒲の田と、カキツバタの植生地とその中を通る八つ橋。
残念ながら八つ橋は通行止め。菖蒲も今は来年のために栄養を蓄えているというところでしょうか。

 突如、菖蒲田の隅に稲田が出現。
光圀が、農民の苦労を教えるために作った田んぼとのこと。
 現在は、文京区内の小学生が田植え、稲刈りをしているそうです。
随分色づいてきていました。

 稲田に負けず、素朴な風景がそこにはありました。
日本人にはほっとする風景ではないでしょうか?
 意外と珍しくなりましたね。ガマです。
穂の上の細い部分が雄花、太いところが雌花の集まりなのです。

 左写真は、’不老の水’と立て札がありました。
この位置からでは、中が覗けませんでした。

 藤棚の裏手には、水門が。
もともと神田上水を引き込んだ水路です。

 二段になっている藤棚。
手前はかなり低いです。潜り込めない高さ。

 後楽園の水源は、江戸時代に作られた上水道(後に神田上水と呼ばれる)を引き込んで稲田や、大泉水を作りました。
 衛生上の理由から明治、大正期には使用しなくなりましたが、その名残はこのような形で点在しております。

 梅林の一番奥にある、藤田東湖の記念碑。
 手塚治虫先生の大好きな作品の一つに、’陽だまりの樹’という幕末を舞台としたがあります。
主人公の一人が、教えを請うのが藤田先生です。
水戸藩の学者で、藩主の側近を勤めるほどの人物。

 何故か梅林内には、趣きある石がいくつも見つかりました。
どこの石?と聞かれると窮してしまいますが、自分でも欲しいと思う石もあります。

 道はいつしか山道に。階段は、しっかり石を並べてあり、これを江戸時代に作っていたとしたら、随分手間がかかったろうと心配してしまいます。
 ここは’小野塚’と呼ばれています。
塚石が茨城の小野産ということで、付けられたようです。

 山の山頂に位置するところにある、’八卦堂跡’。
光圀が、文昌星の木像を安置したところ。
関東大震災で焼失しました。
こちらにある建物はほとんどが復元です。
震災、空襲、庭園はそれだけ人の歴史を見てきたのです。
 愚かな行いによる歴史の焼失は、今後の未来にその反省を活かさねば、さらに愚かでしょう。

 下りは先ほどとは形の違う延べ段です。
よくここまで園路を変化させていると感心します。

 一番見晴らしのよいところに、なぜか立ち手水鉢がありました。
下から見ると、背丈を超す大きさにびっくり!
 通常は、縁先手水鉢として、縁側の奥などに、立ったまま使える手水鉢として、蹲を構成しているもの。
それをこういう場に配置するとは。
もともと八卦堂のために置いたのか、粋で置いたのかは判断できませんが、面白いことにアイデアに感心です。

 ’愛宕坂’。京都の愛宕山の坂にちなんで命名された階段。47段続くそうです。すごい急勾配です!

 こちらが順路なのですが、愛宕坂に負けじと結構急で怖いです。
 また敷石の形に微妙な変化が出ています。

 微妙なバランスで置かれている石。
 根が張り出したら、押されて転がり落ちますね。

 今下ってきた道です。しかし、石が多い。
これが小野産なのでしょうか?
愛宕坂の急さが右側の写真で伝わるとうれしいですね。

 一度中腹まで戻り、別ルートをたどります。また園路の感じが変わりました。
その先に、半円型の橋が見えてきました。円月橋です。

残念ながら、渡ることはできず。

 水面に写る形が満月に見えるところから、円月橋と名づけられました。光圀が招いた、儒学者朱舜水の設計と言われています。
 こういうつくりに、中国趣味を見ることができます。
数少ない当時のものということ。だから渡らせてもらえない?

 団体御一行様でも一息つける、広い休憩所を経由して、ルートは一時松原に戻る道筋になります。ここの松も大きいものは当時の木なのでしょう。
 ここで、大泉水を一番身近に感じる園路を歩きます。

 通称、沢渡り。大泉水と、そこに流れ込む水路を渡る飛び石が道なりに続いています。

 蓬莱島の木も、ここから見るとすばらしく傾いているのがわかります。
 枝なんて水面すれすれ。

 これぞホントの沢渡りです。
 石の大きさが、それほど大きくはありませんので、落ちる方もいるんじゃないかとちょっと心配なります。

 沢を渡りながら見ることの出来る、’白糸の滝’。
幅のある水面を、幾条もの糸を引くように落ちる様から名づけられました。

 道は再び上り坂に。大泉水から離れる道筋にも、いくつか流れの支流があります。もちろん園内の排水にもなっているのでしょう。
 園路の作りや、流れなど、歩いていても飽きがきません。
ただですね、もうちょっと水がきれいだとよいんですがね。

 ’’得仁堂’。史記を読み、感銘をうけた光圀が、伯夷叔斉(はくいしゅくせい)の木像を安置した堂です。

 再び下り坂に。両脇に石が軽く積まれ、狭い園路を進みます。

 ’通天橋’です。京都東山、東福寺の通天橋をならい、かけられたものとのこと。
 このあたりは紅葉が多く、秋の紅葉が見もののようです。その紅葉に合わせ、朱塗りの橋も引き立て役に使われるそうです。

 再び分かれた道を右折し、頂上に向かいます。
 これだけ上り下りしていると、意外と足にきます。庭園周りも楽ではありません。この庭園が、アップダウン多すぎるせいでもありますけど。
そのため、30分コースという短いルートの紹介もあります。

 ’清水観音堂’。ここに京都の清水寺を写した観音堂があったそうです。
写したということは、舞台風にここからせり出して作られていたのでしょう。
 ただし、見晴らしがよいわけではありません。何せ、周りの木々が近い上に大きいので、見通しはききません。
しかし、見下げるとわかる結構な高さ。通天橋もこんな小さく見えます。きっと後楽園の中で、一番高い地なのではないでしょうか?

 これから最後の山くだり。平地に入るとともに舞台も最後の風景になります。
しかし、残念ながらこのページでお伝えするには、まだ予想よりちょっと量があります。
引き続き後編に掲載したいと思います。

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