トップへ
次ページ
前ページ

〜ドイツ・激走編〜

古城街道、ハイデルベルク市街&城

二つの町を観光して、ようやくエンジンがかかってきました。
実はまだ日本にいて、ドイツ村に連れて来られているのではないか?と欺瞞を感じていたりしてましたが、ちゃんと本物のドイツに来ていました。(当たり前ですけど)
ただですね、日本人観光客が多いんです!好みが同じなので仕様がないのですが。

特にツアーだと、現地での触れ合いや出会いがないまま、というよりなくても遜色なく旅行ができるので、他の日本人と一緒に行動していれば、一言も英語もドイツ語もしゃべらずに、また日本に帰れるでしょう。
ですから、自分のように初参加に不安に感じる方もいるかもしれませんが、これなら一人で申し込んでもまったく問題なしと、言い切れますね。

本来なら、このあと古城街道の続きを書いて、ローテンブルクまで行く道もこのページに書きたかったのですが、ページを重ねるごとに、掲載量が増えています。
ですので次回冒頭、再び古城街道からお伝えします!

 ドイツ内の観光は、まさに’激走’の名にふさわしい長距離移動の連続です。
有名な、古城街道とロマンチック街道を走り、フランクフルトからフュッセンの町まで約500キロを2日で走ります。
半日観光、半日移動、の繰り返し。
 奥様にとっては、バスに拘束されるとは言っても、歩き回ったり、自分に連れまわされるより楽だったかもしれません。
まずは、ハイデルベルクまで107キロの移動となります。

 ラインクルーズで下った川沿いを、もう一度戻ります。
一般道、アウトバーンを経由し、マンハイムから古城街道に入ります。あとは真っ直ぐハイデルベルクまで。

古城街道
 マンハイムから、これから向かう、ハイデルベルク、ローデンブルクを通り、国境を越えてチェコのプラハまで至る1000キロの道筋です。この路線には、古くからの城や宮殿が70以上あり、当時の面影を色濃く残しています。
そんなところから、この街道を古城街道と呼び、主要観光ルートになりました。
 元々は、ネッカー川沿いのマンハイムからニュルンベルクまでの300キロを古城街道と呼んでいたそうです。
ネッカー川沿い、川沿い、ライン川と同じ?感のよい方ならピンと来るかもしれません。
そうです。ネッカー川を行きかう船の通行税徴収のため、城が出来たと推測できます。で、その城が今に残って、古城街道を形成できたと。
その後、プラハまで観光街道として延長されたそうです。
 この街道沿いの古城も、ホテルを営んでいるところが多く、中継地点としてもいいと思います。
すいません。残念ながら、今回古城街道の写真が少ないのです。
このとき、まだバスの車窓から写真を撮るということをあまり考えておりませんでした。さらに言えば、異国の景色に目を奪われ、記録に残すよりも、記憶に残すほうを優先してしまいました。
この後から少しづつ車内撮影の写真も増えてきます。ピントがあっていないものが多いので、見せられる写真だけとなってしまうのも残念ですが、雰囲気は分かってもらえるかと思います。
 
 我々もマンハイムから古城街道に沿って走り、ハイデルベルクに入りました。

ハイデルベルクの街
 
あれ?一眠りしてしまった間に、バスはハイデルベルクに到着していました。
失敗!ピンとこないうちに、ハイデルベルク市内に入り込んでいました。時差ぼけのせいで、不意に眠気に襲われます。
旅なれしていないのがバレバレ。
旧市街の路肩でバスを下ろされ、昼食兼市内散策に出向きます。

 ここは、大学の町として有名です。ドイツ最古のハイデルベルク大学があります。
この由緒正しき大学からは、ノーベル賞受賞者を7人も輩出しているそうです。
ゲーテやショパンなど、ドイツを代表する芸術家が数多く訪れ、多くの芸術作品を生み出した町でもあります。

 ガイドブックを見ると、必ず旧市街と書いてあります。ここだけではなく他の観光地にもよくある記述。
どういうこと?と思って調べたのですが、地図も出ていません。なのでグーグルアースでハイデルベルクに寄ったら、駅をはさんで観光地の反対の北東側には、大規模な住宅地や工業地帯が広がっていました。
例えば京都は、古いものが街中に点在している観光地ですが、こちらの場合は、ブロック一つを保存することで、古きよきドイツを崩さずにそのまま保存している、ということでしょう。
このコーナーでは、旧市街も区別なく市街と呼んでしまいます。

 ハイデルベルクには、実は日本にいるときから思い入れがありました。
それは、印刷業界にいた人間なら知らぬもののいない世界最高峰の印刷機メーカー・ハイデルベルグの本拠地だからです。(語尾がクか、グかよくわからないので、地名はガイドブック参考で’ク’、メーカーはHPより’グ’としています)
 印刷会社のサラリーマン駆け出しのころは、日本の印刷技術が世界一と自負していたのですが、ある日、同い年くらいのとびきり美人の女性が商談に訪れました。居合わせた自分が対応します。
彼女は、ドイツに本社のある最大手食品メーカーの日本支社の広報担当で、ドイツ版の自社のカタログを、同じ仕様で日本版にできないか?という相談でした。
 そのカタログを拝見して、ぶったまげました!その、品のある女性が持ってくるに相応しい、よくできたカタログです。
全ページの背景に使われているパステル画は、色ずれもなければ質感も損ねず、ピンホール(針の先ほどの白い印刷むら)すら一つもない。凝った型抜きの表紙、途中窓のあるページは下絵とのずれもなく製本されて、見開きも完璧!荒を探そうと見れば見るほどわが社の印刷技術が足りなく見え、額に脂汗。
 結局、この仕事は泣く泣くお断りいたしました。はっきり言って、同じものを作るには何度刷りなおしをし、赤字仕事になるかと怖気づいたからです。
そして、自分に非力さを感じさせた印刷こそ、このハイデルベルグの機械で、ドイツのマイスターが印刷したものだったのです!いつか必ず負けないものを!そう誓ったのですが、リベンジする自信がつく前に退社してしまい、未だ悔いある仕事して記憶しています。
 日本の印刷技術はかなりのものです。機械もハイテクになりました。紙も、インクも一流です。どこに出しても恥ずかしくありません。日本の印刷関連会社全体に泥を塗ってしまったと恥ずかしく思うばかり。

 今度来るときは、ハイデルベルグ本社工場の見学をしたいですね。

 サンクト・ゴアールの町並み。
丘の上に見えるのは、ライン川で最大級のラインフェルス城。ホテルとして有名。
 裏手に小高い丘が迫っているため、かなり建物が密集した雰囲気がありましたが、こちらではこれが普通のようです。
日曜日のレジャー客で、ただでさえ広くない駐車場もいっぱいです。

 上記写真に見られる青い看板は、お分かりでしょうが横断歩道の看板。かなりしつこいくらい出ていますが、こちらでは横断歩道上を歩く歩行者は、強い!のです。車は止まらなければなりません。ただし、横断歩道以外で渡ったら責任は取れませんが。

迷ったら、マルクト広場!
 
ヨーロッパの古い町並みは、必ずと言っていいほど’マルクト広場’を中心に、放射状に広がっています。
 マルクト広場とは、市場広場と直訳出来ますが、実際市が立ったり、オープンカフェがあったり、かなり広くて人が多く集まる町の中心です。
 これは、軍隊の配置を迅速にするためなど実用目的もありました。逆に、革命の時はここに民衆が集まりました。

 このように、マルクト広場から放射状が基本のつくりなのですから、日本のように碁盤の目を考えていると、盲目に歩くと中心からどんどん遠くなってしまうこともありうるの注意が必要です。
しかも、中心なだけに良いお店も、主要建物も、結構集中してますよ。
 先ずは、マルクト広場の位置を確認してから、各々好きに移動する、というのがよいです。

こちらはハイデルベルクのマルクト広場。市庁舎が目の前にあり、噴水があります。大賑わいですね。

 バスを降りた目の前にデンッとそびえていた街路樹。
まったく目の前の道からすると大きすぎる木です。
人々はその大きさをうまく利用して木陰の下でランチを楽しんでいました。
 この木はシナノキです。西洋菩提樹、リンデンバウム、言い方は色々あると思いますし、品種も混ざっています。
ですので、ここではガイドさんの言っていた西洋菩提樹としておきましょう。
 古来ヨーロッパで、自由の象徴とされた木です。
ドイツだけでなく、どの国に行っても必ず街路樹に使われていました。また、その材も家具や建材など幅広く利用されています。。

 ハイデルベルク大学と大学広場。広場の中心には’獅子の噴水’があります。
 旧校舎や、学生牢など見学できるポイントは多いです。
 現在は、新市街に広大なキャンパスがあるようです。

 大学広場の道路沿いに停まっていた路線バス。かな〜り狭い道のような気がするのですが、大胆にも通常の倍の長さに連結されたバスが走っていました。
 ドイツは、どこに行ってもチャレンジャーな車が多く走っていますね。

 イエズス教会。
すごく清潔感溢れています。

 大学と、イエズス教会の間の路地。
かなり凸凹な石畳。大通り以外は、どこもこんな感じですね。
車で走ると、すごい振動と音がきます。車が心配になります。でも皆さん、そんな道でも飛ばしますよー。

 ツム・リッター・ザンクト・ゲオルク(騎士の家)。
1592年に建てられた現存する唯一の歴史的建造物。
ドイツ・ルネッサンス様式。
 現在は、レストランとホテルが入っています。

 お昼も食べたし、天気もいい。女性陣にとっては絶好のお買い物日和ですね。
 目抜き通りのハウプト通りを散策中。

 なぜヨーロッパには、こんなに歴史的建造物が残っているのでしょうか?
答えは簡単。地震がないからです。こちらではめったに地震はないそうで、もしちょっとでも揺れようものなら、ニュースになるくらいのことだそうです。
ちなみに、日本レベルで地震がある国であったら、今頃建物は全壊しているそうです。

 聖霊教会。今日は中に入れませんでした。
何故かというと…、中で挙式が催されていたからです。何か3ヶ月前の自分達を思い出しますね。
この後は、ドイツではどうするのでしょうね?

 ペット連れで歩いている方は多いのですが、どのペット、大概は犬ですが、お行儀がよろしいのです。吼えるどころか他の犬ともけんかしません。よく躾けられています。

 こちらは、日本の免税店にいるマスコット・ドッグ。
おとなしくて、人なつっこくて人気者でした。
でもちょっとおじいちゃんのようです。
歩き方がおぼつきません。

 皆さんが買い物をしている間に、もう少し町の風景を撮りに行きたいと思います。

 テラスでランチなんて、映画の世界に迷い込んだようです。かなり混んでいて、隣の人とぶつかりそうになっていても平気なよう。
 日本では大盛り名物店に行かないと出てこない大きさが、こちらでは普通に食べられているのはやぱりすごい!

 全面石畳のため木が植えられませんので、プランターに樹木を植えて、目隠しを作っているカフェ。お隣との境界代わりにも使えます。

 オガタマでしょうか?常緑系の植物が数種類混ざって植えてあります。

 店の前に鉢植えされていたキョウチクトウ。園芸種なのでしょう。花弁は大きく、八重で、花びらに白い線が入っていて、自分の家にもほしくなりました。
 樹木はない代わりに、皆鉢物で店を飾っています。

 さすが芸術の町だけに、ストリートパフォーマーも大勢いました。楽器も多彩な顔ぶれです。似顔絵描きや、自分の絵を売る人、または下記のような芸術家たちまで。

 いずれもただ立っているだけですが、近づくと意外とちゃんと化けていることに感心しました。

 噴水もアーティスチック。
ただですね、自分に「これは何?」って聞かないでくださいね。

 こちらの公共物は、黄色で統一されています。
公衆電話と、ポストです。
 日本では、最近公衆電話ボックス見る機会が少なくなりましたが、ドイツでは頻繁に見ましたね。
今回のツアーでも、皆さん携帯持っていました。
 ポストの形は、日本のような迫力はありません。新聞受けと間違えそうです。

再び合流して、市の北側を流れるネッカー川に架かる、カール・テオドール橋(アルテ橋)の見学に向かいます。

 マルクト広場から見る、カール・テオドール橋。
二本の先の尖った塔のようなものが、橋にある門。

 橋に接する街道沿い。旧市街を囲むように、街路樹が植えられています。

斑入りのアオキ

ユズリハの実

シナノキの実

 橋のたもとで、鏡を持った猿が待ち構えていました。
自分自身を見直せ、とでも言っているのでしょうか?

 ネッカー川の流れ。ライン川に合流します。
川幅は広く、ゆったり流れています。

*以下、橋の写真は、一台しか持ち込まなかったデジカメのバッテリーを切らした二代目に代わり、同じツアー客の、
 ケンケンさまよりご提供いただいた写真(計4枚)です。ありがとうございます!

 中世の頃は、この橋にある門を下ろせば、外敵の侵入を防げたわけです。日本の城下町と違い、こちらでは町全体に防護壁(市壁)を築いていました。

 市内から臨むハイデルベルク城。
山の中腹に建てられた城は、歴代の王の増改築で、様々な建築様式を持つ城になっています。まさに芸術の町の城です。
城の左手は、庭園となっており、市街を一望できる絶好のポイントです。

 これよりバスにて、ハイデルベルク城まで上って行きたいと思います。デジカメも車内で交換です。

ハイデルベルク城
 
13世紀、プファルツ伯の居城となってから拡張を続け、様々な様式を織り交ぜた城となっています。
ゴシック、ルネッサンス、バロック、など渾然一体化しています。
しかし、戦争や火災などで城は倒壊しました。現在は戦禍を免れた部分から再建や、復旧がされたものです。

 ここに上る道は狭く、一般者の車での登攀は途中まで。バスも予約制で駐車場を借りられます。
市庁舎の裏手から延びるケーブルカーを利用して、城の近くまで行くことができます。

 急な坂道を登ると、城の入り口にあたるアーチが出てきます。山の中腹なだけに緑はとても多く、市街とは雰囲気が違っています。

 マロニエ(西洋トチノキ)の巨木。
ヨーロッパの町で、一番多く植えられている木ではないでしょうか?シナノキ以上に見られました。
 しかし!こちらの方はこの実を食べないそうです。日本では、トチモチにしておいしく食べているのに。頭上から凶器のように、トチの実が降り注ぎます。

 ゲーテ記念碑の前で。
ゲーテはハイデルベルクの町が本当に好きだったようで、何度も通い、そして恋をしました。そのときの話なども記念碑に書かれているようです。

 何よりここは見晴らし最高ポイントです。
市内を一望できます。

 王妃の散歩道になっていただけに、城の前なのに広々しています。ゲーテにちなんだイチョウの木も突き当たりに植えられています。
 若いですが、たくさんの木が植えられています。

 ここから見ると、随分戦禍に耐えてきた城なのだと実感できます。
外敵除けになっているのでしょう。城と庭の間に、堀のように深く溝が作られています。

 エリザベス門。この門の前で写真を撮ると幸せになれるそうですよ。え?我々は撮らなくても幸せになっちゃいましたから(なんて)。

 券売所のある城の入場口の門。
そこをくぐると、堀を越える橋があり、大きな城門塔の前に出ます。
 先の写真に載せている塔ですが、大きすぎて近くからでは入りきりません。
日本の仁王像のように、二体の騎士が門を守ります。

 この門をくぐると中庭に出ます。
この門扉の取っ手の金輪には、’魔女の噛み跡’と呼ばれるへこみがあります。
 ちなみに、この辺りからドイツギャグが強くなってきます。
日本人にはどこがおもしろいのかわかりませんが、こちらの方ならうけること間違いなし!のネタだそうで…。
 
 あるとき王が、戯れに「この鉄の輪を噛み切る者がいれば、その者に城を与える」と言ったので、大勢が挑戦したが、誰一人歯がたたなかった。最後にやってきた魔女が、全力で噛み付き、その噛み跡。

 魔女も噛み切れなかったそうで、あきらめて退散したそうです。
…うけるほど面白い話なんですかね?

 正面に現れるフリードリッヒ館。王の住まいです。
歴代の、名だたる王が彫刻として壁面に飾られています。この像、上に行くほど足が短いのだとか。
下から見上げたときの比率を考えて製作されているとのことです。
 その左側の建物には、日時計が作られています。

 ドイツルネッサンスの傑作と言われる、オットー・ハインリッヒ館。
現在は、正面部分しか残っていません。

 城最古の居住館、ルプレヒト館。
図書館部には、ゴシック様式のおしゃれな出窓があります。
また、大工の棟梁の、亡くなった双子の娘に捧げられた彫刻が飾られています。
 その脇には、婦人館(女官達の住まい)があります。一階しか残っていないそうですが、今でも催し物会場に利用されているとか。

*補足
 今回の編集作業では、王という言葉で城の主を書きました。
しかし、この言葉は自分が便宜上当てた言葉で、城主=王、と結びつけたもの。間違ってはいませんが、適当とは言いかねます。なので、やはり少し歴史に触れておきましょう。
 このハイデルベルク城の城主は、選帝侯と呼ばれています。
神聖ローマ帝国時代、皇帝は七人の貴族によって選ばれました。その七人を’選帝侯’と呼び、この城主はプファルツ選帝侯と呼ばれました。しかも、その7人の中でも筆頭を務める地位ある家柄です。
 17世紀、領地相続でフランスともめ、2度ハイデルベルクは攻められます。
神聖ローマ帝国は、なりは大きくても所詮小貴族達の寄せ集め、太陽王の下、一つにまとまっていたフランスに勝てるわけもなく惨敗。まさに城も街も破壊の限りを尽くされるのです。
 その後18世紀、19世紀と、城を復元させようと城主になった者たちは奮闘しましたが、落雷やら火薬庫爆発やらで、途中で断念。しかし、面白いことに、その半壊した姿が人々を魅了し、多くの画家がこれを描きました。
その中にはゲーテもおり、爆発した火薬庫跡を描いた作品は有名になり、多くの人が実物を見にハイデルベルクに押し寄せたそうです。


 では、ツアーの続きです。ハインリッヒ館の隋道を抜けて、城の反対側のテラスに回ってみましょう。

 すばらしい眺望です。
先ほど歩いた橋が、左手ぎりぎりに写っています。ネッカー川の向こう岸には、’哲学者の道’という小道が山の斜面にあります。
 かつて哲学者が思索にふけっていたという散歩道で、川に並行するように続いています。
ガイドブックに載っているハイデルベルクの写真の多くが、この哲学者の道から写しています。
 ちなみに、右端にちょっとだけ長い髪が写っていますが、ツアー中最年少(推測20歳)の三重から参加の美女二人のうちの一人です。若さあふれるパワフルさが最大の魅力的でした。誰よりも、どこでも元気でした。

 これもドイツギャグの一つ。
浮気していた間男が、選帝侯に見つからないように飛び降りたときにできたくぼみだそうで、この足型にぴったり合う人は、プレイボーイの末裔だそうです。
 これかなり小さいので、女性じゃないとくぼみに足が入らないでしょう。ま、めり込みはうそにしても、不思議な跡には違いありません。

テラス以外は、こういう石畳。街中と同じ。

フリードリヒ館地下に向かう途中見つけた彫刻。

 木製樽としては、世界で一番大きいワイン樽。直径7m、222,000gの容量を持ちます。
樽の上に登ることがことができ、その大きさを実感できます。
 城の最盛期には、500人以上の人がいて、一日2,000gのワインが消費されていたとのこと。
 壁に架かっているコンパスとカンナは、樽製作時のものだそうです。

 イタリア人道化師、通称ペルオケの像。小柄な人物で、これが等身大だとか。いたずら好きで、横にかかっているびっくり箱のような仕掛けで人を驚かし、気絶したご婦人を介抱するのが楽しみだったそうです。
大酒飲みで、一日ワイン18本を飲んだとか。しかし、ワイン代わりに奨められた一杯の水のあまりのまずさに亡くなったと言われています。

 ここからは少しの自由時間。バス集合とのことで、中を一回りして、ゆっくり歩いて帰ればちょうどよい時間。
なのですが、庭師が庭を見ずに帰れるわけがありません。
時間がぎりぎりなので、早足で東側に広がる庭園に向かいます。

 これがゲーテも写生したという火薬塔の跡ですね。カタルシスを感じます。でも、これだけの厚さの壁が吹き飛んだということですか。
 若者達が登っていました。別に立ち入り禁止とは書いてありませんから、いいのかな?

 17世紀に破壊されるまでは、幾何学模様の美しいフランス式庭園があったそうですが、今では庭園と言っても広場に近い緑地帯になっているだけ。日本風に言うと、ハイデルベルク城址公園。

 ドイツといえば、ドイツトウヒ。クリスマスツリーです。
日本では、モミの木が、クリスマスツリーの木といわれますが、本当はドイツトウヒがツリーの木なんです。モミより葉が細かく、樹形は荒れやすいですが、全体が柔らかく感じる木です。

 本当に公園のように、人々が芝生でくつろいでいました。
なので、観光客に負けないだけ、公園目当ての人々もいたのです。

 なまめかしい半裸の像が出現。
川の神、ネッカーを表しているのでしょうか?庭園の突き当たりに水場があり、噴水?が出ています。

 シデの木の果穂

シナノキの大木

 色づきはじめたモミジ。
わかりづらいですが、葉先は赤くなっています。
実は、ドイツではすでに山あいで紅葉まっさかり。

 日差しの下、日光浴するカップル。
あんまり近づくと怪しいので、遠目の一枚。
我々にとっては、観光地なんですけどね。
確かに、こちらに住んでいれば、憩いの場くらいのイメージでしょうけど。
 
 ヨーロッパの人たちは、日光浴が好きです。
日本人なら、焼けるのがいやでわざと長袖にするところを、こちらでは焼きたくてわざと半袖、ノースリーブにするのです。
どうも、焼けているほうが自慢になるようです。
 これからヨーロッパは、日差しの見込めない季節に入っていきます。
皆、駆け込み日光浴をしているらしいですね。

 ここを下ると、城と庭を隔てる堀の底に行けます。
 戦争のないときは、この堀に鹿が放されていたりと憩いの場だったそうです。
そしていざ戦争になると、水で満たしたそうです。

 お城の前にあるお土産屋さん。
日本の国旗も架かっているのがわかりますか?
これから寄る観光地もそうなのですが、何故か日本語の看板が多いです。
ラインのときの放送だけではなく、公共の看板も、英語、独語、日本語、ということろもあります。
日本人観光客の比率がそれだけ多いのですね。

 キャラ?イチイ?その系統の木に、赤い実が山のように生っています。
食べられますが、種には毒があるので吐き出しましょう。

 わんわわ〜んに、ぜひ載せたいわん発見!
何か、でかくないですか?
街中にいるには、不安になる大きさです。
ドイツ人はホントペット好きのようで、大きさに関わらず、一緒に連れて歩いています。
よっぽどしっかり躾がされているんですよね。

 ケーブルカーがあがってきました。
すぐ駅です。
山の上の展望台まで続いているようです。時間があれば、足を延ばして山頂からのレポートも書きたかったですね。。

 ヘル トーマスがバスで待っていてくれています。
駆け下りるように、行きは登りできつかった坂道を下ります。
 しかしこの石畳、一個が小さいせいか、足を取られるため歩きにくいです。
ついでに、振動が直接伝わるので、負担もかかります。
石の文化に慣れないと、ヨーロッパでは暮らしは大変。

 表通りは人で溢れていますが、一本露地を入ると、静かな田舎町のようです。もちろん注意はしていましたが、物騒なことはありませんでした。

この高い塔の正面が入り口。